P--1417 P--1418 P--1419 #1御裁断申明書    御裁断申明書 【1】 そもそも当流安心の一義といふは、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」 (大経・下)をもつて他力安心の依憑とはするなり。このことわりをやすく知 らしめんがために、中興上人(蓮如)はさしよせて、「もろもろの雑行雑修自 力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが一大事の後生御たすけ候へ とたのめ」とは教へたまへり。よりて、「弥陀をたのむものは決定往生し、た のまぬものは往生不定なり」と、前々住上人(法如)も仰せられたり。また前 住上人(文如)も、「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解なきこ と」をふかく誡めたまへり。この一念といふは、宿善開発の機、その名号を聞 持する時なり。このたのむ一念の信心なくは、今度の報土往生はかなふべから ずと相承しはべりき。 【2】 しかるに近来門葉のなかに、このたのむ一念につきて三業の儀則を穿鑿 P--1420 し、あるいは記憶の有無を沙汰し、ことに凡夫の妄心をおさへて金剛心と募 り、あるいは自然の名をかり、義解などいふ珍しき名目を立て、種々妄説をな して道俗を惑はしむること、言語道断あさましき次第ならずや。これ予が教示 の遍からざるところにして、不徳のしからしむるにやと、朝に夕に寝食を忘れ てふかく心をいたましむるところなり。おのおのいかが心得られ候ふや。 【3】 上に示すがごとく、弥陀をたのむといふは、他力の信心をやすく知らし めたまふ教示なるがゆゑに、たすけたまへといふは、ただこれ大悲の勅命に信 順する心なり。されば善導は、「深く機を信じ、深く法を信ぜよ」(散善義・意) と教へたまへり。まづわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならで はおもむくべき方もなき身なりと知るを、ふかく機を信ずるとはいふなり。ま たかかるいたづらものをあはれみましまして、願も行も仏体に成就してすくは んと誓ひたまへる御すがた、すなはち阿弥陀如来なりとおもひて、わが往生を 願力にまかせたてまつる心の少しも疑なきを、法を信ずるとはいふなり。さ ればいたづらに信じ、いたづらにたのむにはあらず。雑行雑修自力をすてて、 二心なく信ずるが、すなはちたのむなるがゆゑに、その心を顕してたすけた P--1421 まへと弥陀をたのめとは教へたまふなりき。さらに凡夫不成の迷情を思ひかた むる一念を、往生の正因と教へたまへるにはあらずと知るべし。この義は別紙 にも述べ候へども、なほ惑ひのとけざらん輩もあるらめと、重ねて筆を染む るものなり。かまへて末学の書鈔等によりて、一流真実の義をとり惑ふべから ず。 【4】 されば事に大小あり、業に緩急あり。いま示すところは当流の肝要、われ 人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれよりおもきは あらざるべし。もしなほ我執を募りて、あやまちをあらためずは、永き世、開 山聖人(親鸞)の御門徒たるべからざるものなり。こひ願はくは、心得惑ひた る人人、今日より後はいよいよ妄情をひるがへして、相承の正義にもとづかる べきことこそ肝要に候へ。古語にも「知其愚非大愚也 知其惑非大惑也」(荘 子)といへり。さればみづから惑ふと知りて惑ふものあらじ、惑ふは惑ひを知 らざるがゆゑなり。かかる人は明者の指南にあらずは、たれかその惑ひをとか んや。このむねよくよく分別あるべく候ふ。「一息不追千載長往」(摩訶止観)〔の〕 ならひなれば、急ぎて信心決得あるべく候ふ。 P--1422 【5】 さて信心決定のうへには、行住座臥に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と仏 恩を報謝したてまつり、王法・国法に違戻なく、仁義の道をあひ嗜み、如法に 法義相続ありて、今度の往生を待ちうるばかりの身となられ候はば、予が本懐 これにすぐべからず候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。  [文化三丙寅稔十一月五日]   [龍谷第十九世釈本如](花押)